プロフィール

こんにちは。大辻春人です。

 

なぜ私がこのブログを書いているのか。私が何を目指しているのか。

ここはその内容を記したページになります。

 

大辻春人がオギャー、オギャーと生まれてから、28歳の時に脱サラして独立した現在に至るまでを書いています。

 

1万3000文字以上の超長文になってしまったので、ぜひお時間があるときに、楽しみながら読んでいただけると嬉しく思います(^^)

1:授業中なのにいきなり将棋を指しだす男3人兄弟の末っ子自由人

私の名前は大辻春人(はるひと)と言います。

1990年の2月に北海道札幌市の隣にある、北広島市というちょっと雪深いところで生まれ育ちました。

私が生まれたと同時くらいに、札幌市のベッドタウン的な存在の北広島市に新築の家を建てて、愛情たっぷり育てられました。

 

私には年齢が5つ上のまじめな兄と、3つ上のちょっとチャラめの兄がいます。

 

両親はきっと、

「3人目こそ女の子が生まれてくる!」

と期待して、『はるな』という名前をつける予定だったそうです。

 

2月生まれということで、『春』という漢字をつけたかったのでしょう。

女の子だったら大辻春菜ちゃんでしたね(笑)

 

 

ところが、オギャーと生まれてきたのは、またしても男の子。

 

 

いや〜男3人育てるって超大変です。

 

僕も今では3児の父で、長女→次女→長男っていう順番で生まれてきた子どもを育てています。

それぞれ2才ずつ離れてて、今年度(2018年度現在)で6才、4才、2才になるんで・す・が!!!

うちは女、女、男でも、毎日殴り合い・つねり合いの喧嘩は始まるわ、食べかけの食パンのカスみたいなのがその辺に散らかってそれが足の裏にくっつくわ、一番下の男の子が麦茶の入ったコップをいきなり逆さまにするわで、毎日がカオス状態です(笑) ま、楽しいからいいんですけどね。

 

それが男3人となるともっと大変でしょう。当然のように僕も毎日兄たちと喧嘩しまくってました。

 

しかも3人目の男の子だったからなのか、超自由に遊んだりしてました。

 

小学校に入学したての頃は授業なんかそっちのけで、自分の机を先生の机の隣に移動させて、仲良くなった将棋仲間の新田君と2人で将棋してましたからね(笑)

今思うと「自由すぎるだろ!」って冷静にツッコミを入れたくなります。

しかも授業中なのに将棋を指す「パチンッ!・・・パチンッ!」って音が超うるさかったと思います(笑) その時のクラスの皆さん、うるさくしてごめんなさい(笑)

 

まぁそれくらい自由気ままに毎日をすごしてましたね〜。

 

放課後は将棋仲間の新田君のお家に遊びに行って、小学1、2年生のくせに夜7時とかまで遊んでましたからね(笑)

新田君とちょっと自転車を走らせて、遠くにある西友まで行ったりして遊んでいました。

 

当時は本当に何も考えずに自由に過ごしていたんですが、毎日が新鮮で楽しくて、悩み事なんか一切ない、ただ1日1日を全力で楽しんでいました。

遠出した帰り道の夕日に向かって自転車を必死でこぐ姿は、どこか希望や夢に向かっているような…、そんな小学校低学年時代を過ごしていました。

 

ただ、勉強しなさすぎて漢字のテストで5点というアホみたいな点数を叩き出して、母親に漢字ノートを作ってもらってたこともありましたけどね(笑)

 

そんな超絶自由人の私は、体を動かしたり、スポーツをすることが大好きだったんです。

2:小学校4年生から始めたバスケットで 調子に乗りだす・・・

自分で言うのもアレなんですが、結構運動神経がいい方だったんですよ。

小学校2年生なのにマットの上でいきなり側転からのバック転をしたり、小学校3年生からスノーボードを始めて冬休みには10日間連続で1人でナイタースキー場に行って普通にスイスイ滑れるようになったりしてました。

 

で、なんかスポーツしたいなぁ〜って思っていて、最初は母親に「サッカーしたい!」とお願いしたんですが、

「土汚れを洗うのが大変だし、洗濯機でそのまま洗ったら洗濯機が壊れるからダメ!」

というよくわからない理由でサッカーはボツになりました(笑)

当時の洗濯機は土汚れを洗うと壊れてしまうほどのスペックだったのかもしれません(笑)

 

そしたら、今度は放課後の「帰りの会」のときに『ミニバスケットボール少年団、募集中!』みたいな紙が配られてきて、

「これだ!!!」

と思ってソッコー母親に持って行って「これやりたい!」って言いに行きました。

 

兄や母親もバスケットをやっていたこともあり、(土汚れもないし(笑))小学校4年生からバスケットを始めることになりました。

 

得意の運動神経を生かして、メキメキ上達していきました。

レイアップ(走りながら1・2とステップを踏んで片手でシュートするやつ)もすぐに習得したり、小学生ながらワンハンドシュートもすぐにできるようになりました。

 

小学校5年生からはレギュラーで試合に出れるようになったり、中学校に入っても2年生からスタメン出場していました。

 

そして、中学3年生の頃は部長を務めることとなり、チームを引っ張っていった。

・・・・・・・つもりでした。

 

当時の僕は、同じ中学の同級生と比べると、割と上手な方だったんですが、全道、全国レベルで考えると全然歯が立たないレベルだったんです。

当然、北海道選抜なんかにも選ばれませんでした。

 

それなのに、同じ中学内ではちょっと上手な程度で調子に乗っていたんです。

 

同級生には、

「なんでお前リバウンド行かねぇんだよ!お前のせいで負けたんだろ!(怒)」

みたいな暴言を吐いて、その同級生を辞めさせてしまったこともありました。

 

さらに、新しく入ってきた1年生はミニバス経験者が少なく、邪魔者扱いしていました。

「横でドリブル練習でもしてろ!(怒)」

とか言って、実践的な練習には参加させないようにしていました。

 

もうホント自分で書いててクズすぎて泣けてくるんですけど(涙)

 

そんな部長に誰もついてくるわけもなく、結局、僕のワンマンチームみたくなってしまったんです。

バスケットはチームでするスポーツなのに、一人だけが暴走したところで勝てるわけがありません。

 

小さい頃から授業中に勝手に将棋するくらいワガママだった性格が中学になっても抜けず、それがバスケットのプレーにもろに出てしまったんです。

 

結局、中学最後の地区大会も一回戦で負けてしまい、会場の観客席で大粒の悔し涙をボロボロと流していました。

 

部活を引退したあと、バスケ部の人たちとはちょっと疎遠になり、

「お、おはよう…」

程度の会話はするけど、一生付き合っていける深い仲間!みたいな強い繋がりを作ることはできませんでした。

まぁ今思えばそんなワガママキャプテンだったら当然ですよね。

 

それにも関わらず、当時の自分は、

「まだまだ俺はヤレる!もっと上のレベルでバスケがしたい!」

と、謎に自分の実力を過信していました。

 

それと同時に、

「もうこんな奴らと関わるのはごめんだ!」

と周りを見下していた気持ちもありました。

 

小さい頃から、自由に、ワガママに育ってきたせいなのか、本当に自分中心で物事を考えることしかできなかったんです。

本当に「自分は特別だ!」と思っていたんです。(つい最近まで思っていました(笑))

 

そんなひねくれた理由から、高校受験は同じ中学の人は誰も行かないであろう高校で、なおかつ北海道内でバスケが強い高校に行こう!と決意したんです。

その結果、自宅から自転車で1時間くらいかかるような、ちょっと離れた不便な場所にある、北海道一のバスケ強豪校に進学することになったんです。

 

もちろん、自分の中学からその高校に進学したのは自分一人だけでした。

3:周りとのレベルの差を思い知らされる・・・

高校に進学してからは、毎日鬼のような部活の日々が始まります。

 

当然といえば当然です。

 

なぜなら、僕が進学した高校は、僕が入学する7、8年前くらいから、ずぅーーーっと全国大会に出ているようなバスケット超強豪校だったんです。

もう、全道大会出るのは当たり前、全道決勝行くのも当たり前、全道優勝してインターハイ行くのも当たり前みたいな。

 

インターハイでベスト8とかを目指しているような高校だったんです。

 

そりゃ練習が厳しくないわけがないですよね。

 

こわもてのコーチ(通称:ボス)が体育館に入ってくるやいなや、

「オッス!!!!オッス!!!!オッオッス!!!オスッ!!!!!!!」

といった、怒号のような挨拶が体育館中のずみずみに響き渡り、

(おれ、やべぇところに来てしまったんじゃ・・・)

と心の中で思っていました。

 

初めて参加した練習で、ピボット(軸足を動かさずに、もう片方の足を好きなように動かす基礎的技術)の練習がキツすぎて、その日の夜は筋肉痛がヤバすぎて全然寝られませんでしたからね(笑)

 

しかも、公立高校で偏差値もそこそこある高校で、バスケ推薦なんかも全くなしで、普通に受験しないと入れない高校なのに、トップレベルの超人みたいなのが集まりまくるんですよ…。

同級生19人中、北海道選抜4人、札幌地区選抜6人とか、そのうち身長190cmくらいなのが4人くらいいたり、もう僕からしたらワケワカラン世界なんです。(ちなみに僕の身長は169cmです(笑))

しかもデカイだけじゃなくてめちゃめちゃ上手いし・・・。

 

練習では上手な人たちが集まる「メンバー」と、それ以外の「メンバー外」に分かれて練習でした。

 

当然、僕は周りと比べると下手くそだったので「メンバー外」の方でした。

 

自分の実力に過信していた私はソッコーでそのプライドは打ち砕かれ、もうどうしたらいいかわからなくなり、ただただ必死こいて黙々と練習をこなすしかありませんでした。

 

当然、そんな上手い人たちの「メンバー」に馴染めるわけもなく、1年生の頃は金魚のフンみたいに3年生にくっついて過ごしていました。

4:急遽トレーナーに転身

ただ、2年生になったくらいの頃から、レベルが違いすぎる「メンバー」の人たちとも馴染めるようになってきたんです。

なぜなら、がむしゃらに練習を頑張りまくってたら、

「大辻はよく頑張ってる!」

みたくなって、周りの評価がちょっとずつ上がってきたんです。

 

自分的には、

「えっ?そうなの?俺ただ、がむしゃらに練習してただけだけど…。」

とちょっと拍子抜けしました。

 

さすがに「メンバー」のチームに定着することはできませんでしたけど、ちょいちょい「メンバー」の人たちと練習したり、ほんのちょっと試合に出ることもできました。

 

もう僕の中ではユニフォームもらうだけで超すごいことなんですが、ユニフォームももらって試合に出るなんて、想像するだけで心臓が1、2個、ジャラジャラと口から出てきそうなくらい緊張するレベルです。

初めてユニフォームをもらった時は、試合前のウォーミングアップの時ですら緊張しすぎて、

「え?w大辻、緊張してんの?www」

とメンバーのヤツらにからかわれました(笑)

「い、いや別に…。」

みたいな感じで軽くあしらいましたけど、実は内心めっちゃ緊張してました(笑)

 

その時出た試合が初めて出た試合でして、試合終了間際の数秒だけ出場することになったんですが、ボスの指示で僕がスリーポイントを打つフォーメーションをすることになったんです。

結局緊張しすぎて、スリーポイントは打てたものの、リングにかすりもしませんでした(笑)

ただ、身長193cmの長身の仲間が、リングにかすりもしなかったシュートをそのまま拾ってくれて、それをゴール下から決めてくれて、なんかシュート打ったのにアシストみたくなりましたけどね(笑)

 

結局その試合以降、僕はユニフォームをもらうことすらできませんでした。

 

 

中学のときは自信満々だったのに、高校ではユニフォームすらもらえない。あれほど大きな挫折を味わったのは初めてでした…。

 

 

・・・そして、3年生になる直前の3月頃に、私は当然ながら「メンバー外」だったのに、珍しくボスに呼び出されたんです。

 

コンコンッ。(教官室のドアをノック)

大辻「先生どうされましたか?」

ボス「大辻…お前、トレーナーやってみないか?」

大辻「トレーナーですか?…あ、ぅ、うん、あ、ん?あ、はい!やります!」

 

バスケットの実力はなかったものの、がむしゃらに練習を頑張っていたからなのか、トレーナーをやってくれと頼まれたのです。

 

トレーナーって、練習の指示を出したり、選手たちに

「ハイ!もっと声出して!!!」

みたいな感じで叱咤激励する役割の人でした。

今までのパターンだったら、大きな怪我をして長い間プレーができなくなった部員とかがトレーナーになるんですけど、私は大した怪我もしたことないのにいきなりトレーナーを命じられたのです。

 

そして、高校3年生の春から、トレーナーとして「メンバー」の一員として活動することになります。

5:「俺って、別に必要ないよね…。」

トレーナーとして選手を支えるという仕事は、私にとっては思いのほか辛い毎日でした。

 

(自分は本当はメンバーでプレーしたいのに、そんなレベルじゃないし、できないし…)

(選手たちを毎日叱咤激励するのも正直大変…)

 

しまいには、ボスから、

「大辻はホント使えねぇな!!!」

と試合会場の影で言っていたのが普通に聞こえてきて、本当に自分の存在意義がわからなくなっていました。

 

自由気ままに育った小学校時代、ワガママで独りよがりだった中学校時代と比べて、トレーナーという裏方の仕事は、私にとって真逆の世界でした。

まるで、かんかん照りで晴れていた天気が、いきなり黒くどんよりとした暑い雲がもくもくと現れて、いきなり激しい雨に打たれるような悪天候に急変する。そんなような感じでした。

 

選手たちを支える立場でいなければいけないのに、弱音を吐いてしまったこともありました。

 

「俺って、別に必要ないよね…。」

 

チームのエースにそう弱音を吐いてしまう自分がいました。

そんなとき、エースは私に向かってこう言ってくれたんです。

 

「お前がいなかったら、あの試合勝ててなかったかもしれないよ?」

 

その言葉に私は「ハッ!」っとし、何か救われた感じがしました。

完全に自信を失いかけていた自分でも、少なからずチームに何かしらの影響を与えているんだなと感じることができました。

 

その話を今思い出しただけでも、目頭が熱くなって涙が込み上げてきそうになっています(涙)

 

そして、高校最後のウィンターカップという冬の選抜大会に向けて、私は全力でチームをサポートしました。

毎日、選手のテーピングを丁寧に丁寧にやったり、後輩にも積極的に絡みに行ってチームを盛り上げたりしていました。

そんなチームの目標は

「ウィンターカップ北海道予選で優勝して、全国大会で少しでも多く勝ち進む」

ということでした。

 

何かこう、チームで同じ目標や夢に向かっているときって、団結力がグッと増して、一生モノの絆が仲間の間に生まれますよね。

 

そして、ウィンターカップ北海道予選も順調に勝ち進み、決勝戦を迎えました。

北海道では1チームしか全国大会に行けず、その決勝戦で負ければ引退、勝てば全国大会出場という、超大事な試合です。

当時の私たちは、2年生の冬の新人戦から北海道内での公式戦は無敗で勝ち進んでいて、近年稀に見るくらいの最強集団でした。

 

ところが、最後の最後の冬の北海道予選の決勝という超大事な試合で大ピンチを迎えることになったんです。

 

バスケットって10分間×4回で、合計40分間で戦うのですが、3クオーターの残り5分の時点で20点差で負けていたんです。残りは約15分です。

野球でいうと、6回裏で7点差くらいつけられて負けてるイメージです。

 

もはや絶望的でした。

去年の全く同じ大会の決勝で、格下相手に負けたこともあり、

(あぁ〜、また去年の再来だ…。)

とスコアをつけながら感じている自分がいました。

 

ただ、後半残り10分程度のところで、普段スリーポイントを打たない長身のキャプテンが、スリーポイントを打ちまくるという、一か八かの作戦に出たのです。(キャプテンは実はスリーポイントがめちゃめちゃ上手(笑))

 

その一か八かの作戦が大ヒットして、残りの1分でその試合で初めて逆転リードして、そのまま1点差で逃げ切って、見事北海道で優勝することができ、ウィンターカップに出場を決めたんです!

 

いや〜、あの時の盛り上がりといったら、半端なかったです。

 

プロ野球のさよならホームランで勝ったときみたいに、ベンチの選手たちがブワァーーーー!!!っとコートに集まってチーム同士で抱き合いまくってました。

私も自分でつけていたスコアなんかどーでもよくなって、ボロッボロと涙を流しまくりながら喜んでいました。

 

本当に夢や目標に向かって楽しみながら成長していくって、いいなぁ〜と思える瞬間でした。

 

全国大会では、1回戦は延長戦を制したり、2回戦は準優勝の相手にボコされて実力の差を見せつけられたり、ボスがディズニーランドに連れてってくれたりと、とてもいい思い出になりました。

6:自己破産してお金がないから大学は行けないと詰みかける

高校の冬の大会も終わり、高卒で消防士を目指すも普通に試験に落ちてしまった(笑)私は、授業が超暇すぎてよく授業中にこっそり本を読んでいました。

書店に行って、当時本屋大賞を受賞していた「一瞬の風になれ」という高校生の陸上部の物語を描いた本を読んでいたんです。

 

私は短距離を走るのが好きで、中学校時代はバスケ部もしながら陸上部のリレーの助っ人とかもやっていました。

 

その「一瞬の風になれ」という本に、やけに感動してしまった私は、

「なんか陸上やりたくなってきたなぁ〜。」

と、ここでもまた自由気ままな発想が能力を発揮し出します(笑)

 

そして、

「あ、そうだ!大学で陸上やればいいんだ!」

と3年生の冬に謎に思いつき、そっから大学に行くための猛勉強を始めました。

 

それが3年生の12月くらいでして、試験日がだいたいどこの大学も2月頃だったので、2ヶ月くらいしかありません。

当然、センター試験の締め切りは終わっていたので、私立の大学で、大した学力も必要のないところで、日本大学文理学部体育学科を志望しました。(アメフト部のタックル問題で話題になったところです)

 

さっそく私は親に「大学に行って陸上やりたい!」と相談しました。

そしたら、

「そんなお金あるわけないでしょ!」

と言われたんです。

 

なぜなら、私の実家は父親がリストラにあったり、母親が詐欺にあったりして、密かに自己破産していたんです…。

 

当然、私立の大学に行かせる貯金なんかないし、ローンを組むこともできないので、完全に詰んだと思いました…。

 

ただ、私はどうしても諦めたくないワガママな性格だったので(笑)、担任の先生に、

「うち、お金なくて大学に行けないって言われたんですけど、なんかいい方法ないっすか?」

と軽い感じで相談したんです。

 

そしたら、

「こんな方法があるよ。」

と、あるパンフレットを渡されたんです。

 

それが、「新聞奨学生」のパンフレットでした。

 

新聞奨学生とは、大学4年間新聞屋に勤めて新聞配達や集金をして働く代わりに、新聞屋が学費や家賃を全額負担してくれたりする制度のことです。

返済のいらない奨学金で、しかも給料もそこそこ出るので、

「これいいじゃん!」

と軽いノリで、

(これで大学行けるぜ!へへへ…!)

と思い、新聞奨学生で大学に行くことを決意しました。

ただ、大学では陸上をやりたかったので、新聞奨学生のパンフレットに「部活はできません」と一言も書いていなかったという理由だけで、朝日新聞奨学生を選ぶことにしました(笑)

 

大学の入試に関しては、筆記試験はギリギリだったものの、体育学科だったので体力試験とかもあり、それが結構上手く点数が取れて、見事合格することができたんです。

 

これで、晴れて「大学で陸上する!」という目標を叶えることになります。

7:地獄の新聞配達

3月中旬に上京してから、早速陸上・・・じゃなくて、新聞配達の仕事をすることになります。

起きる時間は朝の2時半です。(もはや朝じゃない(笑))

朝(夜中)の3時前には出勤をして、新聞にチラシを入れて、それを自転車に積み込んで、せっせせっせと自転車を漕いで新聞を配っていました。(なぜか学生は自転車で配達するという方針でした)

 

この新聞配達が想像を絶するくらい大変でした。

 

風で自転車がバァーーーーンと激しく倒れて、新聞が道路の上にバラバラに散らかって、その新聞がまた風で飛ばされたりして、もうてんやわんやです。

雨だろうが、風だろうが、雪だろうが、台風だろうが、大地震だろうが、新聞はトラックにブゥーンと運ばれてやってきます。

 

二日酔いでゲ●吐きながら配達したこともありましたし、眠過ぎてマンションの階段で体育座りで寝ていたこともありましたし、東京の夏は暑すぎて熱中症になりながら夕刊を配達していたこともあります。

 

夜中の2時半に起きて、3時から5時過ぎまで配達。そしてまたすぐ寝て、8時半に起きて、9時から1時限目の講義に参加するという超ハードワークをこなす毎日。

しかも、夕刊の配達と夜の集金もあったので、1、2、3時限目の講義にしか出られません。

1時限目にプールの授業や体操の授業が入っていたので、それがまたキツかったですね。

2時限目の座学は必ずと言っていいほど寝ていました(笑)

3時限目の講義が終わって、ソッコーで夕刊を配りに行って、夕刊が終わったら陸上の練習をして、練習後はラーメンを食べに行くのが日課でした。

 

陸上サークル(部活は強過ぎたのでサークルに入ってました)での練習やイベントはとても楽しくて、毎日が充実していました。

 

一方で、新聞配達では奴隷のようにこき使われたり、月の休みも4日しかなくて、連休を取ると十何日連続で勤務とかも当たり前です。

大学の同級生は毎日飲んだくれたり、遊んでばっかりいてかなり楽しんでいたのにも関わらず、自分は新聞を配る毎日。

 

徐々に私の性格は再びひねくれ始め、周りの同級生たちを見下すようになりました。

まるで、中学校時代にバスケ部の新一年生邪魔者扱いしたときのように…。

 

「どうせ親に学費だの仕送りだの色々もらって、大学生活遊んでばっかりなんだろ!」

と本気で思っていました。

今思うとサイテーなやつですよね(笑)

 

でも当時の自分は本当にそう思っていたんです。

当然、クラスの人たちとも馴染めるわけもなく、ちょっと浮いた存在になっていました。

 

しかも、新聞屋内での人間関係も微妙でした。

 

一番衝撃を受けたのは「インフルエンザ事件」です。

 

私は大学2年の2009年11月頃にインフルエンザかかったんです。

当時は新型インフルエンザが流行っているということもあり、私もまんまとインフルエンザにかかってしまったんです。

インフルエンザになると1週間くらいは出勤できなくなるので、新聞配達ができないんですよ。

 

当時の店長はインフルエンザに気をつけるようにと注意していたんですが、いざ私がインフルエンザにかかったら、

「あんだけ気をつけろって言っただろ!!!怒 何やってんだよお前は!!!!!誰かが代わりに配らなきゃいけねんだぞ!!!!!!!!!」

と電話越しで超ブチギレられたんです。

(いや、そんなこと言われても、どうしようもないし…)

と、心の中でかなりの衝撃と怒りを感じていました。

 

さらに、当時お付き合いしていた彼女が私の家に看病しに来てくれていました。

そしたら、ちょうど先輩が私のボロアパートにやってきて、

「お前、何インフルで休んでるくせに彼女呼んでんだよ。ふざけんなよ。」

(ドア)バンッッッ!!!!!!!

みたいな感じで、またもやブチギレられて、社会の理不尽さを痛感していました。

インフルで1週間仕事を休んだので、1ヶ月くらい休みなく働きました。

 

その時、

(ゼッテーーーー新聞なんかやめてやる!!!)

と誓ったものの、

(新聞やめたら学費が払えない…)

という板挟み状態でした。

 

この時ばかりは本当にお金の無さを恨みました。

(お金さえあればこんな苦労はしなくて済むのに…)

 

そう思っていました。

 

そして私はお金を稼ぐ方法を探るべく、不動産投資の本を買ったり、インターネットビジネスを調べたりしました。

が、結局大して本を読むこともリサーチをすることもなく、せっせとまた新聞配達を続けることに。

 

ただ、就職するにはやっぱり給料がいいところが良いと思い、昔、同じ新聞屋にいた同じ大学の先輩も製薬会社に就職したという話も聞いていたので、製薬会社に絞って就活をしました。

 

そして、無事に一部上場企業の中堅製薬会社から内定をもらうことに成功。

 

新聞配達もなんとか4年間続けることができ、卒業する時までにはなんとかいい関係性のまま卒業することができました。

8:製薬会社に勤めながら不動産投資を始めるも・・・

2012年の4月から新卒で製薬会社の営業マンとして仙台で働き始めました。

 

製薬会社の営業マンといえば、20代でも結構良い金額の給料を貰えて、

「もう夜中の2時半に起きることもないし、俺はもう勝ち組だぜ!」

みたいな感じで完全に浮かれてました。

 

自由に使えるお金も結構あって、仲良くなった同業他社の営業マンと、東北一の繁華街「国分町」で毎日のように飲み歩いていました。

 

社内、社外の人間関係もうまく築けて、仕事が楽しくてしょうがなかったです。

全社でもトップクラスの結果を残すことができ、社内の優秀賞のようなものも2回くらい受賞することができたんです。

 

そんな順風満帆の会社員時代でしたが、私の価値観を大きく変える「あるもの」があったんです。

 

それが、『不動産投資』です。

 

私は、いつも通り病院に薬の宣伝をしに行ってました。

そしたら、長身の女性に、

「アンケートに答えてくれませんか?」

と、いきなり声をかけられたんです。

 

アンケートに答えていくうちに、「新築ワンルームマンション投資」の営業だということがわかりました。

 

後日、近くのスタバで新築ワンルームマンション投資について詳しく聞くことになり、そこから不動産投資について色々と調べたんです。

結局、新築ワンルームマンション投資は儲からないということがわかり、どうにか儲かる方法がないかなぁと本を読み漁りました。

 

「あ、そういえば大学の時に興味本位で買った不動産投資本があったな!」

と思い出し、その本を読んでみました。

 

それが、「まずはアパート一棟、買いなさい!」という本でした。

 

その本を読んで、

「あ、こうすれば不動産投資で儲けることができるんだな」

ということがわかり、中古アパートを買うことにしたんです。

 

そして、なんとか良い物件に巡り会うことができ、24歳の時に1棟目、25歳の時に2棟目のアパートを買いました。

買った時は空室があったものの、すぐに満室にすることができ、何もしなくても毎月25万円くらいの収入を確保することができたんです。

 

初めて家賃収入を手にしたときは、

「会社の給料以外でも、自分自身で稼ぐことができるのか…」

と、衝撃を受けました。

 

それから、今まで製薬会社の営業マンとして会社のために一生懸命働いてきたのが、なんだがバカバカしくなってしまったんです。

 

そして、ワガママ自己中モードの大辻が蘇ってきたんです。「ブラック大辻モード」とでも呼びましょうか。

 

今思い返すと、定期的にこのブラック大辻モードが発動していますね。

小学校時代の授業中の将棋から始まり、中学時代のバスケ部部長で同級生や後輩をイジメてしまったり、大学時代は親のすねをかじってる同級生を見下していたり。

 

そして、ブラック大辻モードが発動しているときは、大抵のことはうまくいきません。

小学校時代は漢字のテストで5点取ったり、中学時代はバスケ部の人たちと疎遠になったり、大学時代はクラスの人と馴染めず全然友達ができなかったり。

 

そして、社会人になってブラック大辻モードが発動したときは、もっと大変でした。

 

グダグダサービス残業している人を見るたびに、

(あぁ〜まじ無駄なことしてるこの人たちw)

と心の中で思い、私は定時になった瞬間に帰宅したり。

 

社内の人たちとの衝突が増え、私の悪い噂がどんどん広まっていきました。

先輩や上司のアドバイスなんか聞くわけもなく、どんどん問題児化していきました。

 

毎日愚痴ばっかりの飲み会や、大きな目標や夢、希望を持っていない先輩、上司を見るたびに、

「サラリーマンなんかただの奴隷でクソだ!自分の力で稼げるやつが偉い!」

とブラック大辻モード全開でした。

 

そして、

「こんなところ俺のいる場所じゃない!もっと稼げる方法はないか?」

と考え、副業でインターネットビジネスを始めることにしました。

9:ブラック大辻モードがぶち壊された日

早速、インターネットビジネスを直接教えてもらえる人を探そう!と思い、

「仙台 インターネットビジネス」

とパソコンでカタカタと検索をしはじめました。

 

そして、一番上にあったページにたどり着き、問い合わせをして後日仙台のエクセルシオールカフェで会うことになりました。

その時初めてお会いしたのが、「西村敏」さんという方です。

 

西村さんはインターネットビジネスだけでなく、マインド面でもセミナーや対面で細かく教えていただきました。

 

徐々に成長していくことができ、インターネットでも月数万程度稼げるようになったり、夫婦仲も良くなっていったりしていました。

 

ただ、ブラック大辻モードはなかなか改善することはありません。

なぜなら、小さい時から自己中心的で、自分はどこか特別だと思い込んでいたので、それを否定するということは自分自身を否定することになるからです。

それさえも西村さんには余裕で見抜かれていました。

 

そんなブラック大辻モードがぶち壊される日がきます。

 

それは、西村さんと西村さんの師匠である黒澤さんが、仙台でコラボセミナーをしたときのことです。

私は黒澤さんに、

「西村さんからよく「人と深く関わることを意識しましょう」と言われるのですが、どうしたらいいでしょうか?」

と質問したんです。

そしたら、黒澤さんが、

「大辻さんは人と深く関わる”ふり”をするのが上手いですもんねw」

と、ズバッと言われたんです。

 

もはや西村さんだけじゃなく、数回しか会ったことのない黒澤さんにも見抜かれてるという(笑)

 

…そうなんです。

私は自分の特別感を保つために、人と深く関わることを恐れていたんです。

深く関わってしまえば、どこか特別に思われないんじゃないか?と超ビビっていたんです。

 

そのセミナーが終わったあと、西村さんと初めて会ったエクセルシオールカフェで反省会をしました。

 

「僕…本当は特別感を維持するためにただ強がってるだけで、本当は超弱いやつでダメなやつですね…」

とかなり落ち込んでしまいました。

 

ですが、西村さんは、

「それに気づいただけでも大きなことですよ。人は気づいた瞬間から変わり始めますから。」

と励ましてくれました。

どこか心がじわっと温まるような一言でした。

 

そこから私は、

「人と深く関わりながら、夢に向かって応援し合える関係」

という軸が確立されていきました。

 

バスケ部のトレーナーをやっていた高校のときのように、影でチームをサポートしながら、同じ目標に向かって応援し合える関係。

そして、残り1分で冬の最後の大会を大逆転勝利しときの、あの歓喜の瞬間。

 

あの時感じた、深い喜びや深い絆と同じくらいの「幸せ」を、これから多くの人たちと一緒に築いていきたい。

 

そう決心したんです。

10:あの深い喜びや深い絆をもう一度

今思い返すと、自分が満たされた状態で周りのためにサポートしたり、周りのために動いているときは、常に上手くいってました。

 

バスケ部トレーナーをやっていた高校時代や、会社のために一生懸命働いていたときの製薬会社時代。

逆に、「俺が俺が」となっていたブラック大辻モードのときは、全然うまくいきません。

 

ただ、自己中になるのも使い方によってはいい方向に働くとも今では感じています。

例えば、高校時代にお金がないからといって大学を諦めるのは簡単でした。

それが、どうしても諦められないワガママな性格のおかげで、新聞奨学生という方法を導き出し、無事に大学に行って陸上をやるという目標を達成することができました。

 

なので、使い方によっては自己中もアリだなと思ってます。

西村さんや黒澤さんが良く言うのですが、包丁は美味しい料理を作ることもできれば、人を殺すこともできる理論と同じです。

 

なので、自分の好きなことや、やりたいことで周りの人に喜んでもらったり、お金を稼いだりして自分自身を満たす。

そして、そこで貯めたエネルギーを「人と深く関わりながら、夢に向かって全力で応援し合える関係」という軸に乗せて、夢や目標の達成に向けて全力でサポートする。

 

そうすることで、高校最後の大会の時に感じた、あの深い喜びや深い絆と同じくらいの「幸福感」を、これから多くの仲間たちと築いていけると確信しています。

 

今は不動産投資のおかげでサラリーマンを辞めることができ、自分のやりたいこと、好きなことをして、自分自身を満たしていけるようになってきました。

今度は、夢や目標を見失いかけている人や、夢や目標はあるんだけど、どうしていいかわからない人たちを私がサポートしていく番です。

 

私は不動産投資が得意ですし、不動産投資にはあなたの理想や夢を叶えるだけの『力』があると思っているので、このブログで不動産投資に関する情報を発信しているということです。

 

ぜひ、目標、理想に向かって、一緒に夢を叶えていきましょうね。

 

大辻春人